|
ふとしたきっかけで八ケ岳の山名由来山岳信仰を調べてみた
きっかけは、御小屋尾根下山中の道はずし。 よくある失敗だけれども、そうまたやっちまいました。 思い起こせば35年ほど前、赤岳鉱泉小屋番だった山の師匠と10代だった私は学林(現太陽館周辺)から阿弥陀岳南稜を目指した。登山道っぽくもあり目印は一杯あるのだがどういうわけか南稜そのものすら見つからない。なにやら石神の一杯あるところを超えてさらに徘徊し、ビバークして天気も悪いので敗退となった。 私はといえば地図すら持たず、コース概略の予備知識も頂上から見てあの辺からこう来てこうだな、程度だった。今回は、その時のコースを逆行したようだ。
阿弥陀岳を下り御小屋山から舟山十字路に向かう時、注意を要するポイントに虎姫新道と言うのがある。御小屋尾根から広河原林道、舟山十字路へ向かうには地図に虎尾神社と記載のある尾根へトラバースする必要がある。私が行者小屋小屋番だった当事、この辺のガイドブック作成の際の略図等で、「虎尾神社というのは何のことかわからないんで虎姫新道にしとこうと思う。」という話を聞いたことがあった。当時の私には地元の山岳信仰などわかる由も無く登山道整備などしている地元の山岳会などで通用している名称が一般化すべきだと感想を述べた。確か、昨年惜しまれつつも鬼籍の人となった原村の先輩、大河原ヒュッテの田中光彦氏だったと思う。 私にとっては原村には希少な酒飲みで世話になった優しい先輩だった。ちなみに御小屋尾根上の虎姫ジャンクションを直進すると御小屋のある諏訪大社社有林にでるが、このあたりの感じが中央稜出口あたりと気配が似ていて阿弥陀岳から吹雪で中央稜に入りそこなった時などにはそこと勘違いしやすいかなと思った。気配じゃなくて地図と高度計でナビゲーションするだろ普通?といわれれば、はいはい、やってしまいました。である。
このときは自宅の車で美濃戸口〜舟山十字路へ運んでもらいましたが、上記のような経緯を思い起こせばゆかりの地。後日、虎尾神社を訪れてみた。石神群とやや奥に「赤岳開祖大教正生力彦神」の巨大な石碑。なんでしょうかね? ということでとりあえずこのときは先日の私の足跡を後続が追わないように虎姫新道ジャンクションまでのトレースと目印を付けて帰ってきた。さらに思い出したのは御小屋山からは美濃戸へ下る区界改めの塚道もあり登山に利用すると便利な事を紹介した2人の先輩にちなんで池守新道とよんでいた。このコースはうちの愛犬が若かった頃、散歩と称してよく走り回ったもんだ。なんでこんななれた所でガイド中にはずしちゃったんだろうな。はっきりいって美濃戸口方面への赤布が多すぎるよな、ってまた言い訳のような気分になった・・・ 帰ってからも虎尾神社の名称由来が気になって、これはこの山に親しんだ山の先人たちの思し召しか?という気分になって調べてみることにした。
ということで、地元図書館でこの地域の山岳信仰の歴史を原村史、富士見町史、小淵沢町史、諏訪市史、茅野市史、槻木区史等から調べてみた。まずはヘリでも運べないであろう巨大な石碑。これは赤岳南口開山の行者海山坊の神号碑とのこと。 -海山坊富田兼明行者は泉野槻木区の修験道行者。安政2年(1855年)阿弥陀岳を経て赤岳に登る赤岳山南口を開山した。 -
とある。赤岳開祖ならあの場所の神社は赤岳神社前宮とか赤岳山神社前宮でよさそうなものではないか? 御小屋尾根なのに何故阿弥陀岳開祖じゃないのか?という疑問もあったが、この当時、既に赤岳神社、赤岳神社里宮、赤岳に登山する信者による赤岳講は既に存在していた。これとの兼ね合いかと思われる。虎尾神社という名称は一切出てこない。石碑は虫倉神社、虫倉山虎尾明神ということなので、これを奉納した行者が修行した虫倉山の師の神号か何かじゃないのだろうか?海山坊本人が奉納したものなら、海山坊は諏訪城下成就院に修行した、とあるので、この師匠先達が虫倉山で修行した虎尾行者という名前だったということもあるかもしれない? ちなみに槻木区の入口には修験道を知らない私たちには何故ここに?という、大きな御岳大権現の碑がある。
私たちの虎姫新道は登山者の便宜の為、登山道の要所についた呼び名に過ぎない。しかし、虎尾神社と呼ばれる場所が行者海山坊ゆかりの地であることは間違いないとしても、地図記載の虎尾神社という神社が存在したかどうか、なぜ虎尾なのかは結局わからない。この地の山麓の村々の辻には何らかの経緯のある石碑郡はやたらとある。海山坊は明治維新の悪政、神仏分離、廃仏毀釈に翻弄された修験道行者であり、諏訪大社の社有林、御小屋山から阿弥陀岳という仏教丸出しの登山道を開いたその地に神社を開くという紆余曲折の存在を信仰に興味の無い私でも痛く感じた。かつて、横岳のある峰に大権現の石碑があることによって地図にその峰を大権現と記されたことがあった。しかしそこは現在一般的に石尊峰と呼ばれており、いずれかの講や個人の発願で石碑が奉納されているとしても、山の中の地名がそれと決まるものでもないということがわかる。
これらの史料の中で特に気になった記述が、槻木区史にある。 -東城作名行者(東城作衛門)は木曽の御岳山で修行を重ね、天明8年(1788年)八ケ岳の主峰に登山して赤岳山と号した。翼寛政元年(1789年)地蔵尾根を通って赤岳へ登る道を開山した。2殿作った石祠のうち一殿は赤岳山頂に下槻木家日向に祀り赤岳神社里宮とした。-
というもの。なんと、赤岳という名前は江戸時代後期の修験道行者作名によって命名された、ということらしい。また末社として峰ヶ岳社(祭神、日本武尊は北峰?)、微石社(祭神、大己貴命だがショルダーか竜頭峰にあったかな?)を置いたとある。私たち普通に登山する現代人は赤岳は赤いから赤岳。ああ、そうなの。で、済んでしまう。しかし、よく考えてみると赤岳が赤く見えるのはせいぜい行者小屋あたりまで登ってからじゃないだろうか?夕日に赤く染まるのは写真にすれば何でも一緒だ。いまは白い。
それなら、ということで山名由来についての文献を調べてみた。といっても前出小淵沢町史の八ケ岳信仰の章が史料を簡潔に連ねて提供してくれている。なので、赤岳という山名についての結論を先に言うと作名行者による命名以前の文献に赤岳の表記は見られない。
江戸期の諏訪高島藩士による観光案内?『すわかのこ』宝暦六年(1756年)には
八簡山、八岐山 地蔵ケ岳、虚空蔵ケ岳磨磐山共云、擬宝珠ケ岳、薬師岳、権現岳、阿弥陀ケ岳、編笠ケ岳、中ニモ至リテ高シ斎河原ケ岳 とある。諏訪地域から見た八ケ岳であれば、天狗岳、硫黄岳、奥の院、日の岳、赤岳、阿弥陀岳、旭岳、権現岳、西岳、編笠山がこれに対応するはず。
また、『八ケ岳絵図』(長野県富士見町乙事区共有)では権現岳、薬師岳、阿弥陀岳、擬宝石岳、編笠岳、地蔵岳、虚空蔵岳、西岳となる。ただし、八ケ岳は個々の山の名前が土地によって違っていたようだ。乙事の絵図もそうだが、甲斐の国の長坂、大泉なども江戸期以前から山岳信仰は盛んであったけれども八ケ岳というもの自体が権現岳周辺であり、赤岳を毛無岳、磨巖山などといい、権現、旭、ギボシを薬師、檜峰、阿弥陀等と呼んでいた。小岳、麻姑岩、風の三郎ケ岳など諏訪側では見られない山名もある。民間による地域それぞれの呼称であれば情報網の曖昧なその当時に山名同定は不可能であり現代においてはそれぞれの部落や地域で個々の呼称があったようだ。としか言えないだろう。なにを持って八ケ岳か?の件に関しては、「どっから見ても8つ位の山に見える山の塊だから八ケ岳なんじゃない?」と答えていたけれど多分それでいいんだと思う。
『すわかのこ』における八簡山、八岐山にみるように八ケ岳という名称にも地域差がある。
甲斐地域の八嶽という表記が八ケ岳呼称の起源ではないだろうか?諏訪では霊鷲山、東岳などと呼ばれていたようである。霊鷲山というのはインド仏教の聖地。平安期の豪族による荘園開発以降、諏訪においては諏訪信仰、御射山信仰によって八ケ岳山麓のほとんどが御狩野、神野として踏み入ることが出来ない神域であった。山に至っては神の座、霊鷲山であり踏み入り汚すことはありえなかったとされている。御小屋山の下に御小屋神社が祀られたのが天正十二年(1584年)といわれているので、美濃戸から茅野への御柱道はこの頃から出来ていったのだろう。このような御狩野の奥山から神となる御神木を引き出すというのだから神聖な地であったはずだ。御狩野の神野であった原村周辺の新田開発が始まるのは江戸時代に入った慶長15年(1610年)である。御柱は7年ごとだし、これとほぼ符合するのではないだろうか。
甲斐の国での権現岳開山は早かった。甲州から見れば霊峰富士に対峙する権現岳である。天孫降臨神話の大山祇神の娘、木花之開耶姫命を富士山、磐長姫命が八ケ岳に、というのも甲州から見た環境での話ではないだろうか。鬼門の守護神として権現岳(檜峰、檜岳)に八雷神を祀った。開山時期は不明というが檜峰神社であり山名も檜峰と称した。檜峰神社の里宮はなぜか権現岳と縁を感じない御坂山塊にある。甲府盆地を隔てて対岸ではあるし、釈迦が岳や神坐山といった霊場を思わせる山々に囲まれた土地なので恐れや穢れを遠ざけ鎮めるという信仰の形なのかもしれない。八雷神、磐長姫を祀ったこの檜峰神社の由来は古く貞観10年(868年)とあるが、どちらの檜峰神社かはわからないようだ。古来より諏訪信仰が厚く神官による統治に近かった諏訪に対し、豪族による武士団の形成も早く霊峰富士を擁する甲州にも役の行者以降の修験道の定着が早かったことは容易に想像がつく。
権現岳頂上から鎌倉末期から室町初期とされる薙鎌、北宋銭が出土しているということから、その頃(1300〜1600年頃?)には檜峰権現に登拝する行も武田武士団と共に栄えていたのだろう。また観音平に八ケ岳神社、大泉に八岳神社、天女山付近に八ケ岳神社前宮社などがあり、権現岳を檜峰ではなく八岳として拝していたようである。大泉の八岳神社は八ケ岳信仰を起源とする社には珍しく、現在でも地域の産土社として活躍しているようである。登山口として三つ頭道、観音平〜編笠の道もいずれかの行者によって開かれたはずだが、これは調べていない。
開山した行者が山名をつけるというのは稀だろうし、名前を残すというのも江戸後期以降の困難性の高い山岳の開山だったからかも知れない。この頃の講では里の行屋で数日の精進修行をして身を清めた上で行者の先導で登山する、というのが当時の修験道の信仰登山だったようだ。赤岳開山の作名行者のほかにも修験道行者は弟子も含めてあちこちの集落にいたようなので、江戸時代中期以降この土地の新田開拓が落ち着いた頃には、これら行者の間で赤岳と呼び慣らされていた可能性は充分にある。いずれにせよこのときに赤岳という山名が確定し、地蔵岳、虚空蔵岳だった行者小屋周辺の横岳、硫黄岳などの名称も実際に現地を歩く講の人たちの中で定着していったようだ。かねてから思っていた大同心という名前、なんで江戸時代なんだろう?と思っていた疑問も解決した気がする。富士のような独立峰では無い場合、実際に歩かなければ、複雑な地形の山の地名は確定しにくいものだと思う。
|